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人生を変える気付きをくれた亡き母への想い

ただ言いたいこと
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今回は、「感謝」と「気付き」で心豊かになれるお話です。筆者自身ののお話。ごゆっくりどうぞ!すごく大事なポイントは、目次の2-3にあるので、お急ぎの方はそこに飛んでくださいね☺️

お盆は、一般的に8月13日~16日と言われています。

ご先祖様を迎えて、感謝する期間です。

これを書いている今は、2021年。この年も前年も、新型コロナウイルスの影響で地元に帰れず、お墓参りをすることができませんでした。

そこで今回、この記事を書いているのが2021年8月13日で、お盆の期間に入ったので、(追記2021年12月)

11年前に亡くなった母親に、想いを巡らせていました。

そこで、人生が変わるような大きな大きな気づきがありました。

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母、55年間の短い人生

母は、昭和30年3月に長女として産まれました。

55歳で生涯を閉じたわけですが、人生100年時代と言われている今では、とても早い一生でした。

はじめに、そんな母の一生を簡単に振り返ります。

結婚と子育て

母は父と職場恋愛を経て結婚。

昭和55年、24歳のときに娘である私を産みました。

今では、24で子供を産むのは早いような感じがしますけど、当時は一般的だったようです。

母は、看護師で県職員。

私が産まれて3ヶ月後には仕事に戻っていたそうです。

家では、夫婦喧嘩をよくしてました。それでも、普段は仲の良い夫婦だったと思います。

母の仕事は、県職員の看護師

母は県職員の看護師でした。

今風?で言うとバリキャリ(古いか?)の女性で、後輩や上司からの信頼も厚く、働き者でした。

看護師としてメキメキと頭角を現し、私が大学生になる頃には看護師長にまで上り詰めていました。

異動の辞令で病院が変わることになり、異動を望んでなかった母は嫌がってましたが、そこで看護師長として迎え入れられました。

そこで数年、苦悩しながらも立派に看護師長として勤めていました。

胃癌の発覚

そんな中、私が社会人1年目のときに胃癌が発覚します。

発見時でステージ2。

胃を全摘し、周りのリンパまで取り除きました。

私は田舎から出て、都会で一人暮らしをしていました。社会人1年目の頃です。

その報告を術後に父親から聞きました。

すべて事後報告だったのです。

え?なんですぐに教えてくれなかったの?

って当時、思いました。

後で思えば、社会人1年目の娘に、心配をかけたくなかったんですね。

術後、退院してからは自宅療養。それでも、数ヶ月後には、夫婦で旅行に行けるくらいまで回復しました。

ところが、1年半くらいしたところで再び体調が悪化します。

再入院してから、もう二度と退院することはありませんでした。

享年55歳。

55歳の誕生日を迎え、その1週間後に息を引き取りました。

お葬式には、想像以上にたくさんの人が参列してくださり、母親の仕事での信頼の厚さを実感しました。

そんな母と私の親子関係についてふりかえります。

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母と娘の関係性

物心ついた頃から、私と母は友達のような関係性だったと記憶しています。

仲良しで、何でも相談出来て。

怒られた記憶は一切なく、休みの日には、ショッピングやカラオケによく出掛けていました。

家族団らんが特別だった幼少期

幼い頃の私は、夜勤もある不規則な勤務状況の母のスケジュールをきつも気にしていました。

夜勤の日は、父と2人きりで夜を過ごすことになります。

なんかそれが寂しくて嫌だった。

夜勤明けで帰ってきたら、母はそのあと眠らないといけないから、一緒に遊べない。

だから子供ながらに夜勤の日は嫌いでした。

反対に日勤の日は大好きでした。家族3人で夕食を食べ、テレビを見て眠る。

そんな当たり前のような日が、私にとっては特別だったのです。

母親との接点が減った思春期

私が中学に入ってからは、部活動が忙しくなり、当時、私の指導者でもあった父親と行動することが増えました。

母と過ごせる時間は、ますます減っていたと思います。

母も寂しかったんでしょうか。

私は母親自身ではないから断言はできないけど、もし母親の立場なら、ものすごく寂しかったと思います。

そして私は18で高校卒業とともに田舎から出て都会で一人暮らしを始めました。

盆と正月に帰省し、そのときは母と遊びに行っていました。

今思うと、母親との接点って、思った以上に少なかったんだなぁと感じます。

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母との関係を振り返って得た「気付き」

自己肯定感が低さや、極度の不安症が、幼少期に原因があるかもしれない、ということを最近知り、母との関係性を振り返るようになりました。

上述して分かるように、私は母のことが大好きだったけれど、接点はとても少なかった。

このことから、私が得た情報通りのことが、私にも当てはまるのかもなと思いました。

でも、母親からの愛情が無かったとは、決して思えないのです。

母は、私のことを大切にしてくれていたと思いますし、そう信じています。

ただ、

自分自身が、

「母ともっと遊びたい。もっと一緒に居たい。」

と強く望んでいて、それが叶わなかったと思い込んでいる

ここに、自分自身の自己肯定感の低さ等の原因があるように思います。

そのときの環境で、私自身がそう思い込んでしまっただけ

そして今になって分かったのは、

母もただの人間で、

ただの女

ということ。

24歳という若さで私を産み、その中で、ただ必死に生きてきた母。

彼女なりの欲望、願望、情熱は、子供以外にもあったはずです。

母もなんとかそれをバランス取ろうとして過ごしていた。

今は、そのことを十分に理解できます。

もしかしたら、仕事が一番頑張りたい時期だったかもしれないし、

自分の夫以外に、惚れ込んだ男がいたのかもしれない。

それは、否定するようなことではないし、だからといって、自分の子供に愛情がないわけではないのです。

人間の欲求の優先順位は人それぞれです。

我が子がどのぐらい寂しいか、どのくらい関わってやれば良いのかなんて、がむしゃらに生きている20代、30代では、気付けないかもしれません。

ここに、「誰が悪い」なんて議論は存在しません。

このことに気付けたことは、今後の私の生き方を変えていくのに大きなきっかけとなりました。

気付くことが、最初に何より大切なことです。

気付いたら、それまでのことが思い込みであったと分かるのです。

私の場合、

接点が無かった→寂しい→愛されてない→自己肯定感が低下→不安障害

と思い込んでいたけれど、この「愛されてない」がただの思い込みだったとしたら?

次の矢印には、進んだりしないのです。

母の闘病と娘(私)の苦悩

さて、もう1つ、母との関係性には、大きなことが残っていました。

それは、母の死のきっかけとなった胃癌の闘病です。

母の胃癌が分かったのは、私が公務員に就職した初めの年度の夏でした。

たぶん、それよりだいぶ前から癌は母を蝕んでいました。

母が亡くなった後に出てきた母の日記には、47歳頃から、癌の疑いがあることが記されていました。

それから約5年後の発覚でした。

私が離れた都会で公務員となり、その夏に両親で私のところに遊びに来てくれました。

就職祝い旅行と称して、3人で京都の鞍馬・貴船に旅行したのです。

貴船の旅館で、川床料理を楽しんでいたのですが、そのときの母の食欲が極端に無いことと、好物のビールもコップ半分で残して、食後にはトイレで嘔吐していました。

「何か変だな」と感じた父が、その後病院で検査をさせたことで分かりました。

その直後は先に述べたような闘病生活。

再入院すると、母はみるみる痩せ衰えていきました。

当時の私は、うまくいかない仕事のストレスとプライベート、そして母の病で精神がガタガタでした。

闘病中の母に、メールや電話で、仕事や彼氏の愚痴ばかり言って、話を聞いてもらってました。

これも遺された日記に、こう記してありました。

娘の悩みを聞いてあげたいけれど、自分の苦しみで、娘の話が頭に入ってこない

これを読んだとき、私はショックで泣き崩れました。

母が自分の命と直面しているときに、一体私は何をしていたんだろう?

と。

本当なら、私が母の苦しみや愚痴を聞く立場だった。

そんな後悔が押し寄せ、膨らんで膨らんで耐え難い気持ちになったのです。

しばらくは、その後悔と、母を失ったことの喪失感で、落ち込みに落ち込みにました。

自暴自棄になり、前後不覚の毎日でした。

その時期をなんとか乗り越えた今、思うことは…

55歳で亡くなった母は、不幸だったのか?

愚痴ばかり言う娘に、「この親不孝者!」と恨んでいたか?

そんなことは、母にしか分かりません。

もしかしたら、死に際は幸せだったかもしれない。

幸せといかなくても、覚悟を決めていたかもしれない。

私の悩みを聞いてあげられない気持ちは、決して恨みではなかったかもしれない。

繰り返しになりますが、

それは、

母にしか分からないのです。

今、私ができることは、産んでくれた母親に感謝することだけ。

今年も、このお盆にその感謝の思いが届くように母のことを回想していました。

唯一の心残りは…

唯一の心残りは、我が娘を会わせてあげられなかったこと。

「こんな場面では、母は何て言うかなぁ?」とよく考えたりしています。

母が生きていたら、相も変わらず育児の悩みや、夫のことを愚痴っていただろうなと思います。

もしかしたら、天国で、

「自分で考えて、しっかり選択して生きなさい」

と、メッセージをくれているのかもしれませんね。

贅沢なタラレバ話をするなら、

もっと喝!をいれて欲しかったなとも思います。

ときどき、夢に出てくるのは、喝!を入れに来てくれているのかな。

それから、私は一人っ子だったけど、そのあと、子作り頑張ってたのかな?とか、そんな大人な話もしてみたかったです。笑

終わりに母へのメッセージを書かせてください

娘はもうじき1歳になります。

実家に帰ったら、お墓参りをして、娘を見せますね。

私から産まれたのが信じられないくらい、かわいい子です。

貴女のその腕で、抱いて欲しかったです。

きっと、天国からドジな私を心配して、様子を見てくれているのでしょう。

世の中は、どんどん変わっていきます。

私も時期が来れば貴女の居るところへ行きます。

どうか、それまでは離れた天国から見守っていてください。

いつもありがとう。今日もありがとう。

産んでくれてありがとう。

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