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「目に見えないもの」の存在〜流れに乗る生き方〜

「考えすぎ」から見えたこと
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不思議な出来事とか、神の存在だとか、このブログでも以前に記事にしました。

以前の記事はこちら↓

総じて、「目に見えないもの」の存在について、今回は考えていきたいと思います。

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目に見えないものの力は存在するのか?

人の目には見えないもの、霊とか念力とか、宇宙の力?とか、神通力とか。

そういうものって、科学や物理的な見解ではどうなっているのでしょう?

いくら考えても、解明できない出来事があると、いろんな場面で聞く中、すべてのそういった「目に見えないものの力」は、否定できないように思います。

うまく説明できるかわかりませんが、

良くも悪くも、すべて大きな大きな流れに沿った真理に近づくための軌道修正のようなものに思えてくるのです。

言うなれば、最終的にたどり着くのは、人々や生物等が元々持つ芯の部分、変えられない・変わらない部分が招く、当然の結果にたどり着くためのプロセスのような気がするのです。

芯の部分の周りに在る環境、環境に基づいて芽生えた意識や学習によって、様々な方向に枝分かれしていくが、

何かの力が、それぞれの最期に導いているのではないかと

感じるのです。

人も、自然も、宇宙も…魂も。

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縁について

「縁」というものも、不思議なものだと感じることが多いですね。

人と人が出会って仲良くなったとしても、いつの間にか離れて疎遠になったり

その後何年も経ってから、たまたま偶然、どこかで出会ったり

境遇がすごく似た人に出会ったり

昔、すれ違ったことのあるだけの人と将来結婚したり。

人間関係だけではなく、土地などの場所や物との縁も然りです。

「縁」は仏教の言葉から来ているようですが、何かしらの「因」(物事が起こりうる元)があって、縁が起こるというのが仏教で言われていることだと筆者は理解しています。

仏教は、神話的なものではなく、科学に似たような、とても現実的な思考の宗教だという話があります。

そう考えると縁は、目には見えないものではありますが、決して不可思議なものではなく、真理に基づいたものであると言えます。

人と人との出会いは、出会うべくして出会うものなのかもしれません。

他者のと縁は、自分自身を取り巻く環境を作る要素であり、生まれて何も分からない状態から、最終的な人生の(魂の)結末に辿り着くためのサインや道筋を与えてくれるものなのかもしれません。

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魂について

とは?

辞書には以下のように説明されていました。

1.生きるものの体に宿って心の働きをつかさどると考えられるもの 古来、肉体を離れても存在し、不滅のものと信じられてきた。 霊魂。

2.心の活力、精神、気力

3.それなしではそのものがありえないくらい大事なもの

4.(多く「…だましい」の形で)そのものの持つ固有の精神、また気構え

参照:goo辞書(出典:デジタル大辞泉[小学館])

「魂」も目には見えない不思議な存在です。

心の動きは、科学的には脳の働きによって起きる現象と言われています。

複雑にさまざまな脳の反応が組み合わさって感情が生まれたり、身体の反応が出たりします。

たとえばそのあらゆる反応の組み合わせを魂が操っているのだとしたら

それぞれに魂が宿っていて、その魂が持つ目的によって、それぞれ生きるものの進む道が枝分かれしていくような気がします。

魂は、肉体を持たず、肉体が生命維持を終えても存在すると言われています。

その魂が、また再び肉体を得て、その肉体を使って何かを作ったり、産み出したり、思想を発現させたりする。

こう考えると、ものすごく古い時代からの脈々と生き続けているような感じがします。

新しい魂って、生まれるの?という疑問も湧いてきますね。 

もしくは、物体の数だけ、魂というものは存在しているのかも。

物体が出来る度に、どこからか魂が宿るのかもしれません。

魂の存在も、人の数だけ解釈がありますから、確かなものはありません。

ただ、存在としては「在る」と言えるのではないでしょうか。

これはあくまで想像の仮説ですが、

魂は、もともと大きな大きな1つの存在であって、既存の魂が肉体を使って何かを産み出すたびに、その大きな1つの存在から、産み出されたもののサイズに合う大きさの魂がちぎれて、そこに宿るのかもしれません。

人生を見えないものの流れに任せて生きてみる

もしかしたら、私達の人生を導いているのは、目に見えないものだらけなのかもしれません。

不思議な力の、存在の有無は目に見えないので誰にも確かなことは分かりません。

ただ、1つの考え方として、

目に見えない不思議な力が、例えばあると過程して。

不思議な大きな力が働いているとしたら、

あらゆる出来事には、最終的に辿り着く着地点に行くためのものだと考えることもできます。

それならば、すべての縁も(苦手な人も含めて)

思い通りにいかない状況や、多少の困難は、ある程度その流れに任せてみることも1つの道かもしれないと考えることができます。

そう考えれば、日常で起こるちょっとした嫌な出来事で不機嫌になったり、落ち込んだりしなくなる。

ただし、大きな苦難はまた別の意味を持つと思います。

身体があると、魂が喜んでいるか、悲しんでいるかを感覚として捉えることができます。

魂にとって幸せなことは、身体も心地よいはず。

ものすごく辛いと感じる状況は、魂の悲鳴であると受け取ることができます。

大きな苦難を身体で感じたとき、それは魂の訴えでもあると受け取ることも大切です。

そのときは、逃げ出しても良い時だと思うのです。

魂の訴えを五感で感じ取ることも大切です。

そうして、起こり来る出来事を受け取りながら、進む道を決めていく。

そうすれば、それぞれの最終的な魂の境地に辿り着くことができるのではないでしょうか。

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