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全部、自分で決めていい〜それぞれ生きる世界は独立している〜

「考えすぎ」から見えたこと
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物事を自分で決められない

決断が人任せ 

自分で決めたいのになかなか決められない、

もしくは決める勇気がない、

そんなことはないだろうか?

親の教育や世間の常識というものに、がんじがらめになって、

本当に思っていてることをぐっと押し込んで、他者に決断を委ねてしまうことがある。

でも、

親が言うことが自分自身にとって本当に正しいこと?

世間一般の常識ってそもそも何?従わないといけないもの?

よくよく考えてみたら、疑問なことも出てくる。

私達は、もっと自分で決めて、自由になってよいのだと思う。

この考えに至るきっかけをくれたのがこの言葉

岩戸開き

一元性、二元性の世界

である。

この言葉ご存知だろうか?

スピリチュアル界隈では、よく聞く言葉だと勝手に思っている。

あるとき友人から、この2つのワードを聞いた。


なんとなくこれらのワードが気になって、

自分なりに調べてみた。

そこで、

生きるうえでとても大切なことに

気づいたのである。

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「一元性」・「二元性」・「岩戸開き」の言葉の意味

まずは、これらの言葉の意味についてさらっと触れておく。

「一元性(いちげん・せい)」とは

参照:デジタル大辞泉より

一元性とは、

「一元」という名詞に、接尾語の「性」がくっついたものである。


この「一元(いちげん)」の意味は、

デジタル大辞泉によると3つの意味合いがあるが、


スピリチュアルで使用される意味合いについて言うと、

「すべての物事の根源はただ一つのものである」

という意味として使われる。

「二元性(にげん・せい)」とは

「二元性」は、これはすべての物事にはすべて2つの原理が存在しているという意味になる。

たとえば、

光と影
善と悪
表と裏
陰と陽
暑い寒い

等々のこと。

「岩戸開き」とは

「岩戸開き」について調べてみると、日本の神話(言い伝え)のようなものである。


様々な意味に使用されるようなので、

ここではスピリチュアルにおける一元性・二元性の世界にかかわる「岩戸開き」の意味に限定する。

「岩戸開き」は、

先に述べたように神話であり、

もともと一元性だった世界が、二元性の世界になってしまった経緯を神話にしたものであった。

かなりざっくり説明する。

天界での昔話。

太陽の神である「天照大神(あまてらすおおみかみ)」という神様が、

弟の「須佐之男命
(すさのおのみこと)」のいたずらに嫌気がさして岩の中に隠れてしまった。


太陽の神様が隠れたことで、世の中から太陽が消えて暗闇になった。

「それは困る!」と、

他の神様たちが相談して天照大神に岩の中から出てきてもらおうと試行錯誤する。

天照大神に、

わざと聞こえるように神様たちが楽しそうにどんちゃん騒ぎをして、

この世はキラキラと輝いている!と騒ぎ立てる。

それを聞いた天照大神は、「光の存在である私が隠れているのに輝いてる?なぜ?」

「私のほかに新たに光の存在が現れたの?」

と、気になりだし、
岩の陰から外の世界をのぞこうとする。
 

その瞬間、すかさず神々は前もって用意していた鏡を天照大神が覗き込んだ先に置く。

鏡に映った自分自身の
輝きを見て、天照大神はよくよく見ようと体を岩の中から乗り出した。

そのとき天照大神はひっぱりだされてまた光が戻ったという話。

(諸説あり)

参考:https://ameblo.jp/mitsulow/entry-11580540882.html

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「岩戸開き」神話から見るこの世界

「岩戸開き」の意味を調べたのがきっかけで、とあるブログ記事に目がとまった。

記事はこちら↓

さとうみつろう『⑦天の岩戸開き』
...

それはとても分かりやすく、おもしろくどんどん読み進めていったのだが・・・

読み進めるうちに岩戸開きの理解とともに沢山の疑問が湧いてきた。

そのブログによると、

要するに「岩戸開き」の神話は、

今のこの世は二元性の世界である。

しかし

遠い昔、

もともと世界は一元性であったことを説明している神話だったとのこと。

このブログでは、

岩戸の隙間から外を除いた時に天照大神が見た自分の姿は、鏡に映った天照大神自身。


だが、鏡なので映った姿は反転して映っている。

そしてその瞬間から、反転した鏡の世界がスタートしてしまった


と解説している。

反転した世界は

すべてが偽物の世界

それが今の世の中だというのだ。


鏡に映っているのは本物の自分ではない、偽物。


本物の自分自身は、決して自分の目で確認することができない。

だから、

我々が目で見て認識できるものというのは、

すべて偽物なのだ

というお話。

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神話から読み解く偽物の世界とは?

参考ブログでは、

目で認識できるものは全て

偽物という言葉で伝えている。

(ここからは、筆者なりの解釈もおりまぜて書くことにする。)

「鏡に映った世界が偽物で、偽物の世界が始まった」

というのはつまり、

天照大神が鏡を見たときに

初めて自分の姿形、ここに存在していることをを認識した。

そこで初めて

自」と「他」

という概念が生まれた。


これが二元性の世界である。

自分自身の全容は、直接自分で見ることは出来ない。

それが、鏡があると見ることが出来る。

どちらも自分であることは確かだが、鏡の中の自分は本当の自分ではないし、反転している自分なのだ。


このように、

全てのもの、

こと、

人が、

「自」と「他」を認識しあい、

関わり合いを持ちながら回る世界が始まった。

これらは全て、あらゆる存在どちらかが欠けると成り立たない世界でもある。


例えば、

「あなた」と「わたし」

これは、「わたし」の存在がなければ、「あなた」は認識できない。


光と影もそう。光がないと、影は存在できない。

はたまた、

暑い、という感覚がないと、寒いという感覚も分からない。

つまり、二元性である世界は分離したものがただ別々存在しているのではなく、
両方が存在してこその存在であることになる。

どっちが欠けても成り立たない。

すべての物事は、元々は一つだと言える。

一元性の世界との違いは、

自他の概念の有無。

一元性の世界では、

何かそこに一つのものが存在はしているけれど、

物理的にそこに在るとか、

どんな姿をしてるとか外観も、

状況も分からない。

ただ一つのものが「在る」ことは確かだが、

誰もその存在を証明してくれるものは無い。

結局すべては人間が作り上げた物事

言葉というものを生み出し、

我々生きとし生けるものの由来や成り立ちや、

存在意義やらを考えたのは、

結局のところ私達人間だ。

今現在、

私達人間が知りうる範囲では、

自他を認識し、

言語化し、

コミニュケーションを取りながら生きているのは人間だけだ。

頭脳が発達した人間は、

この世に生を受けた時から、

この世の意味を考えたり、

この世界の成り立ちを

紐解こうとしたりしてきた。

重力があることを発見したニュートンや、

気圧の概念を見つけたパスカルなど、

この世の自然現象の原理原則を発見した学者や研究者がいて、

ある程度のこの世の物理的・自然現象的な仕組みは分かったものの、

果たしてそれが完全100%そうであるか?

人間が想像できる範囲ではない。

ましてや、

人間達が誕生していない

ずっとずっと昔のことは、

実際の本当のところなんて分かりようがない。

いくつかの研究や分析から得た

太古の状況も、神話も、

人間が調べて、結びつけて、予測して、創造して

作った作品なのだ。

ここから得られる、楽な生き方のヒント

岩戸開きの神話は、

2つの物事が1つから成り立っている

という

人間達の気付きを、

物語として残したもののような気がする。

こんなふうに

複雑に考えたことから

実にシンプルで楽な生き方が見えてくる。

以下にその生き方のヒントを解説しよう。

①人の考えに正解も不正解も無い

結局すべてのことは、

人間が気付いたこと、 

人間が作ったこと。

それに気づけば、

自ずと分かることがある。

それは、

人が考えたことに、

正解・不正解はない

ということ。

人それぞれ本人が◯なら◯だし、

△なら△、✕なら✕なのだ。

あの人にとっての◯が、

私にとっての✕であることも、

至極当たり前に

有り得ることなのだ。

それをふまえて、

自と他の考え方は、

分けて考える方が良い。

自と他は、

互いに自の考え方を他に対して強要も、

否定もすることなく、

違いがあることを

当然のこととして認識する必要がある。

他者を

自分の世界観に

無理に巻き込まないことが大事だと思う。

人間は、

この世に多数存在し、

共存している。

生き物の本能として、

生存の欲があるなら、

違った者同士が

共に生きて行く道を考えるしかない。

支配や強要だけの世界は、

いずれ滅びてしまう。

「自分の正解はコレで、

あの人の正解はアレなんだな」

と理解するだけで、

人間関係はちょっと平和になるんじゃないだろうか

②辛いことも嬉しいことも両方あって当たり前

二元性の世界は、

対比する2つの存在なくしては

存在しえない。

光と影のように。

となると、

嬉しいことがあれば

悲しいこともあるのは、

ごくごく当たり前のこと。

その人に「嬉しい」

という感情があるのは、

「悲しい」感情

を知っているからだ。

たとえば、

悲しいことしか

経験してない人がいると過程しても、

その人は

「嬉しい」という感覚は

分からないので、

悲しいという感情も、

認識できない。

人間は、

ほとんどが平等に

喜びと悲しみを

持ち合わせているということになる。

あとは、

その感情を

自身でどう受け取るか?

だけの問題になってくる。

幸せそうな人、

そうでない人の違いは、

ただ、その受け取り方1つ

のように思えてくる。

生きることが楽になってくる?

これらの事から、

考察の結果を導き出すと、

多少なりとも

生きるのが楽になるのではないか。

誰の意見にも流されなくて良いし、

悲しいのは

喜びを知っているからだし、

なにせこの世の

あらゆる認識可能な物事は、

人間が作ったものにほかならない。

能力の差は多少あれど、

同じ人間という個体が作り上げた

それぞれの世界が、

共存して今が成り立ってるだけだ。

それなら今からだって、

自分自身の居心地の良い世界を

勝手に作り上げたっていい。

自由に作っていい。

ただし、

それを他に強制してはならない。

そして、

他人の世界の中で生きる必要もない。

あくまでも、

自分自身の心地よい世界に集中すれば、

それでいい。

多くの自己啓発本やセミナーで、

「自分を愛して」

とか

「自分を大切に」

とか

出てくるけど、

つまりは、

自分の世界で生きる

に集中するってこと

なのかもしれない。

もっともっと自由に生きたって、

本当は

誰にも何も咎められない。

咎められたところで、

それは全然違う世界での出来事だから、

気にする必要もないのだ。

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