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「他人が認めてくれない不満」強い承認欲求の裏にあるものとは?

「考えすぎ」から見えたこと
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毎日一生懸命に仕事や家事や子育てをしても、周りがちっとも認めてくれない。

自分はこんなに頑張ってるのに…

そんなふうに不満に思ってしまうことはないだろうか?

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好きなことをしてるはずなのにイライラしている?

私は、現在専業主婦だ。

40歳で第一子を出産し、家事育児を一手に引き受けてやっている。

自分が好きで引き受けたのだ。

家事をすること自体は、嫌いではないし、苦にならない。

それなのに、身体の疲れがたまると、イライラが止まらなくなる。

話しかけても上の空の夫に、

「なんで私はこんなに頑張ってるのに労ってくれないの?」

と、思ってしまう。

手伝って欲しいとかじゃなく、ただ、頑張りを認めて欲しい。

ただ、

「ありがとう。いつも家事頑張ってくれて感謝してるよ」

と言ってほしい。

それすら、してもらえないの?と悲しくなってしまっていた。

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承認欲求とは何か?

私は不安障害があって、心のことや自己啓発については関心があった。

良く調べるタチなので、この感情をどうにかおさえようと、ググっていた。

そこで見つけたのが、「承認欲求」という言葉。

マズローという心理学者によると、人間には5段階の欲求があるのだそうで。

三角ピラミッドのように、下から順番に積み上げられていく欲求の第一段階は、「生理的欲求」

人間が生きて行く上で必要とする本能的な欲求である。

睡眠欲や食欲、性欲といった人間の基盤ともなるもの。

二段階目が「安全欲求」

事故に遭いたくない、とか、怪我したくないとか、自分を外敵などから守りたいという欲求。

三段階目が「社会的(所属と愛の)欲求」。

他者と関わりたい、所属したいという欲求。

そしてそのもう1つ上の、四段階目が「承認欲求」

自分を認めたい、とか、他人から認められたい欲求。

ここまでの欲求を満たされてようやく最後の5段階目、「自己実現の欲求が出てくる、というもの。

承認欲求は、わりと高度な欲求だが、人間には標準装備されている。

しかしこの承認欲求が、極端に強いと、なかなか厄介である。

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過度な承認欲求を持つとどうなるか

適度な承認欲求は、行動の原動力となるが、過度の場合は、認めてもらうことが目的の全てとなり、どんな手を尽くしてでも、「承認される」ことに執着する。

たとえば、SNSの「いいね」を必死で獲得したいがために、嘘や大袈裟な投稿を重ねる、バレたらあまり良くないことを匂わせる、などの行為を繰り返す。

私にも、形は違えど、この承認欲求が強く出ているように思う。

「こんな頑張ってる私を認めて!」と。

そのため、相手に、いじけたような言葉をぶつけ、

(たとえば「私のこと嫌いなんでしょ!」「ダメな奴だと思ってるんでしょ」など)

「そんなことないよ」と言ってもらえるように誘導する。

そうやって無理矢理認めてもらうような台詞を相手に言わせてしまうのだ。

この方法は、やった本人もされた相手も、全く気持ちの良いものではない。

それでも、私はやってしまうのだ。

その根底には、「こんなに頑張ってるのに認めてもらえない」という思いがある。

過度な承認欲求の根底にあるものが完璧主義

だけど、家事以外の好きなことをしているときは、頑張りは、頑張りと感じない。

ただ楽しく、やりたいからやっているだけで、誰かに誉めてもらうことを目的としていない。

では、家事や子育てが、私にとって楽しくないものなのだろうか。

そのとおり。

心から楽しめていないのだ。

家事が嫌いではないのに、なぜ楽しめないのか?

考えて、考えて、出た答えは

完璧主義

だった。

心理学的な言葉としても使われる完璧主義。

育児も家事も、

「ここまでしなきゃダメだ」

という基準ラインを持っている。これは、

勝手に自分で作っている。

それがコンプリート出来ないと、

自分はサボってる、ダメな人間なんだ、と思ってしまう。

だから無理をしてでも、やってしまう。

無理をして疲れて、頑張っているのに、他人に何か少しでも否定的なことを言われると、カッとなる。

これは、自分が自分を責めているから起きる現象。

自分が一番否定的になっているところを他人につつかれると、全否定されたぐらいのストレスがかかるのだ。

他人はそんなつもりなく言っても、本人にとっては地雷を踏んだように爆発する。

相手もそれではたまったものではない。

できないことはできないで良い

本当は、できない時は、できなかった、それで良いのだ。

赤ちゃんのオモチャを除菌シートで毎朝拭かなければならない。

キッチンの排水溝は必ず毎日ハイターで殺菌し、5分以上はつけておかないといけない。

そんな細かい条件を、毎回毎回叶えないと気が済まない。

そこには不安が潜んでいる。

とくに、赤ちゃんについては、オモチャを除菌しないまま、それを舐めてしまったら、

お腹を壊すんじゃないか、

病気になるんじゃないか。

排水溝は毎日ハイターかけなかったら、カビだらけになっちゃうんじゃないか。

これらのことは、1日とか1回だけサボったぐらいで、実際はどうもならないことばかりだ。

赤ちゃんが、少し汚れたものを舐めたって、重篤な状況にはならない。

無菌状態で私生活は送れない。

排水溝も、1日でカビだらけになることはまずない。

そのあたりを落ち着いて考え、1日の中で優先順位が高いものからこなし、できなかったことに関しては

今日は、出来なくてもいっか~

という思考になれば、ずいぶんと楽になるのかもしれない。

だけど、自分はだらけやすいから、一度サボったらどんどんやらなくなるのでは?

と思ってしまうなら、その行動は、ほんとは嫌いなことの部類に入るのかもしれない。

家事といっても、いろんなタスクがある。細分化すると、その中の好き嫌いが分かれてくるはずで。

じゃあ、嫌いなこと、苦手なことは、「毎日絶対やらなきゃ」の項目から弾くことも一つの手である。

この話は、私の主婦業を例として出したが、他の仕事をしている人達にも共通することだ。

少しテキトーに生きてみないか?

部屋が少々散らかっていて、夫に「部屋汚いな」と言われたら、自分を全否定されたかのように感じてしまう。

赤ちゃんが、ちょっと危ない行動をしたら、全て自分の責任だと思ってしまう。

それがとてつもなく自分の首を絞めている。

実際は、そうではない。

掃除ができなくても、赤ちゃんがすりむいても、私という人間が否定されるわけではない。

但し我が子に危険が降りかかるのは、もちろん絶対に嫌なので、全力で守るとして…

その他のことに関しては、もっとテキトーで良いのだ。

出来ない自分が、ダメ人間だという思考は捨てたほうがいい。

人は、そもそも生きて、そこに存在しているだけで価値があるとされている。

完璧にできない自分も、自分で認めてあげられたら、ちょっとは家事も育児も楽しめるんじゃないか。

そもそも、全てを完璧にこなそうとするほうが無理があるのだ。

自分で自分を認めて、

まぁいっかー、このくらいでも。

と、まずは自分の疲れた身体をいたわることをしてあげよう。

体力が回復したら、また頑張ればいい。

夫に、少々部屋の汚さを指摘されたら、「てへぺろ」で済ませられるぐらいの気持ちで良い。

(もちろん、ゴミ屋敷のようなものはダメだけどね)

それは、部屋の散らかりに対して出た言葉であって、私という人間自体を否定されたわけではない。

誰にだって欠点はある。出来ないこともある。

だからこそ、自分以外の人間と協力し合って補って、生きていくのだ。

たまには自分を甘やかしたっていい。

もし、あなたも疲れていたら、

今日はコンロを磨くのはやめて、温かいお茶を飲もう。

今日は事務机の整理をやめて、定時きっかりに帰ろう。

上司の誘いは断って、お気に入りの居酒屋でひとり酒を楽しもう。

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