UA-194356872-1

大切な人を失ったたとき何を思う?喪失感の受け入れ方

「考えすぎ」から見えたこと
スポンサーリンク

大切な人を失ったとき、どんなことを思いますか?

先日、我が家族全員がとてもお世話になっていたとても素敵な方が天に召されました。

筆者にとっては、自身の母親を亡くして以来のショックでした。

悲しさ、

喪失感、

驚き…

さまざまな感情が現れ、そして涙が溢れました。

死生観も、人の数だけ違いがありますが、

今回は、大切な人を亡くしたときの気持ちについて語りたいと思います。

スポンサーリンク

身近な人の命

身近な人の存在とは、

家族、友人、恩師など自身を取り巻くごくごく環境の中に、存在します。

その中でも、自分が特に慕っている相手と、突然お別れをしなくてはならなくなったとき、深い悲しみに包まれます。

まだまだ、その人との未来を描けると思っていたのに、もうそれが出来ないということが、たまらなく寂しい。

そんな気持ちになります。

その人が、意識をなくすその瞬間、どんな気持ちだったかは分からないけれど、幸せな人生だったと、思えたなら良いなと切に願います。

筆者の母親も、

亡くなる寸前、幸せな人生だったと感じていてくれただろうか…

そうだったら、いいな…。

これは、今生きている人間(筆者)の、希望的観測にしか過ぎないのですが。

長年闘病して苦しんで終わったこの世の人生でも、急にパッといなくなっても、

どちらにしたって残された側は、はじめはものすごく悲しいし、喪失感を抱くものです。

でも、この世界での日常は普通に過ぎていくし、自分もいつかはお腹は空いてごはんを普通に食べるのです。

身近な人がいないという、非日常が起きてもも、やがてそれが日常にとって変わるのです。

そうやって、悲しみを鈍化させて、消化していかないと、残された側は、生延びてきていくことが出来ないからなのでしょうね。

スポンサーリンク

儀式の意味

筆者が、そのお世話になった故人の葬儀に参加して、「ありがとう」と「さようなら」を告げました。

そうすると、少し気持ちの整理ができて、乱れた心が落ち着いたような気がしました。

葬儀の意味合いは、宗教的には様々な考え方があるのでしょうが、私はそこまで宗教には詳しくありません。

ただ、筆者が個人的に感じた葬儀の意味があります。

故人を偲ぶことで、生きてる者の心の整理に非常に役立つものだと感じました。

葬儀を終えて、まず第一段階の落ち着きを取り戻し、四十九日、一回忌、三回忌…と、法要を行うたびに、故人は天にいることを心に落とし込むようなステップだと捉えています。

海外においては、死そのものに意味を持たないという考え方があり、葬儀のようなものも、お墓のようなものも無いという所が存在するとか。

それはそれで、あり得る感覚だと思ったりもします。

ただ、やっぱり大切な人との別れは辛いです。

生きた状態で、二度と会えないという事実を受け入れていくために、筆者にとっては必要な儀式だと感じています。

スポンサーリンク

命を失うこととは

前述したように、生死は特に何の意味も持たないという考えに則ると、単なる現象でしかないから、誰が亡くなったって「仕方ないな」で済ませられるかもしれません。

しかし現実には、そんな境地に至るのはとても難しく、心理学のような専門的な分野でも大切な人を失った後は、さまざまなメンタル症状が行き来するといった情報も見受けられました。

冒頭に述べたとおり、死生観は人それぞれです。

ここからは個人的な筆者の考えを綴ります。

物理的に生命維持活動が終わることは、確かに良く考えてみれば当然のことのような気がします。

しかし人間は、高すぎるレベルの脳を持ってしまったために、

その人が大切だとか

愛しているとか

失いたくない

などといった感情を持つようになってしまいました。

人を愛することは、とても素敵なことだと思いますが、

そのぶん、

大切な人を失った悲しみは大きくなるものです。

それを解決させてくれるのは、時間の経過だけなのかもしれません。

そのための法要があって、お墓参りがあって。

旅立った側の気持ちは、もう聞くことは出来ないから、残された私達でしか、その人の人生の終わりの意味付けをすることが出来ないのです。

科学的には意味のない人生の終わりに、私達人間だけが意味をつけることが出来る。

そして、そうやって私達が少しずつ前を向いて歩いていけるような気がしています。

あとがき

人の命に関することを書くのは、とてもエネルギーが要った。

なので、この記事を一つ書き上げるのにものすごい時間がかかった。

忙しさが変わったわけでもなかった。ただ、書き進めるパワーが出なかった。

何度も何度も、思いを巡らせても、個人的な思想に過ぎず、共感も得られないことは理解しているつもりだった。

私の近い友人からも、私の死生観は、なんとなく、受け入れられない感じを受け、それがいつまでもひっかかっていたのも、書き進められない一因のように思える。

正直、一他人の意見が、自分と違うからと言って、このブログに書くことを躊躇する必要はないし、

そもそも、ここに書き留めたところで、今のところ、そこまで大きな影響力を持たない。

いちいち他人に左右される必要性はないが、その他人が、大切な友達だから、認めてもらえないことに悔しさを覚えているんだろうか。

その友達の命も、私はとても大切で愛おしいものだと思っているのだ。

そんな葛藤を振り払うのに時間がかかった。

その友人がこの記事を読む確率などほぼゼロに近いのに。

ならば友人の批判(?)など恐れず、素直な気持ちをしたためようと、覚悟するに至り、やっとのことでブログをアップする次第である。

最後に…

ぷーさん(仮名)のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました