「一人前の親になる、ということは、どういうことか分かります?」
たまたま乗ったタクシーで、運転手さんに聞かれた質問。
変わった運転手さんでした…
タクシー内の会話で、「親」についての授業のようなものが始まったのです。
その運転手さんは、話し方がとても学校の先生っぽくて
もしかしたら、定年退職するまでどこかの教師とか校長先生とかしてたのかな?と思ってしまいました。
そこでの会話から、
「親になる」とはどういうことか?について、深く考えさせられたので、今回はこのことについてお話ししていきます。
子沢山じゃないと一人前の親にはなれない?
運転手さん曰く、ですが
子どもが1人や2人では、一人前の親にはなれない、と。
これは、どういうことか?
と言うと、
一人っ子の場合
親は初めての子なので、その子を溺愛し、大事にしすぎる傾向にあります。
やれ痛い目に遭わないように
やれ苦労しないように…等々
それは過保護だったり過干渉という言葉でよくありがちなことだと私も感じます。
かくいう筆者自身も一人っ子として育ちましたので。
過保護や可干渉は、親と子どもとの間で適切な分離が出来ていないということが原因となります。
こうなると、子供はいつまでたっても自立することが出来なくなります。
筆者の場合は、精神的な自立は、いまだに出来ていない気がします。たぶん…
自立についてはこちらの記事も読んでみてください!
過保護や可干渉は、親なりの深い愛情表現ではあるのです。
しかしそれが、度を超していたり、方向性がずれてしまうと、子供の自立を妨げてしまうということがあるようです。
誰が悪いってわけでもないのですが…。
本来は親と子であっても、別人格の人間だという自覚を親は持てるようになると良いですよね。
そうでないと親は子を、自分の所有物として自分の価値観、先入観に嵌め込んでしまいがちに。
それは、本来親がすべき役割ではないのです。
ところが、2人目、3人目が生まれると、1人目との違いをまざまざと見せられます。
同じ親から生まれたのに、こんなにも違うのかと思い知らされるそうです。
そこでやっと、親は個々の人格が存在することに気付けるのです。
子供が2人でも困難な理由
運転手さん曰く
子供が2人の場合も、やや困難さがあるといいます。
「2人」という関係性は、逃れようのない二者択一の世界が生まれるというのです。
下の子の面倒を見ている間は、上の子は自動的に放っておかれる立場になる。
それが積み重なると上の子はグレてしまう。
反対に上の子を構ってばかりだと、下の子は拗ねてしまう。
どちらかが放っておかれると、どちらかが寂しい想いをしてしまうと、バランスがうまくとれなくなってしまうというのです。
子供が3人以上になると家族の中で社会の縮図を知る
子供が3人またはそれ以上の場合はどうなるか?と言うと、
例えば…
親が今日は長男の世話に重きをおき、次の日は次男、その次の日に三男、こうなると、子供たちは物事には順番があるのだということを、歪んだ気持ちになることなく、自然と生活しながら学んでいくそうです。
そして親側も、常に平等にできんわ!もうそれぞれ勝手にやってー!!と、ある意味の割り切りをせざるを得なくなるとか。
家庭の中で子供たちは社会というものを知り、親もある程度の割り切りで、子供たちを遠くから見守る姿勢を会得するのです。
とはいえ、欲しくても授かれない人もいるし…
ここまで運転手さんの話を聞いていて、
「なるほど~」と思う部分も多々ありました。
そりゃ確かに、昔は子供が5人とか7人とかが当たり前の時代があって、今よりもっと自立心の芽生えは早かったかもしれません。
確かに今の子供たちは、親の過保護や過干渉、または歪んだ愛の注ぎ方によって、健全な自立心を削がれてしまった子が増えているように思います。
かといって、子供をたくさん産め!と言われても、そして本人が産みたくても、様々な理由で産むことができない人も存在するわけです。
そういう人の存在を考えたらどう思いますか?
と、その運転手さんに問うてみたかったですが、さすがにその後の予定があったので車中だけの会話ではそこまで掘り下げる勇気はありませんでした。
この出来事を踏まえて、親がどうあれば良いのか、筆者なりに気付けたことを書いていきます。
親が、親として成すべきこと
この運転手さんの話は、ある意味極論のような話です。
前述したように、現代の社会では、経済的にだったり、身体面の状況だったりで、子供を多く授かりたくても叶わない人が多いです。
「じゃあ、子沢山じゃない人は駄目なの!?」
って、反発したくなりますよね。
しかしこの話から見えてくるメッセージは、「子沢山でなければダメだ」というものではないと思うのです。
子供が何人であろうが、
親としてのスタンスをきちんと自覚しなければならない
ということを学べるお話しだったのではないかと思うのです。
親としてのスタンスは、
- 親と子は別人格の人間であると知る
- 手厚く面倒を見るのではなく、遠くから見守る
これを分かっていれば、一人っ子でも二人兄弟でも懸念されていることは解消されるでしょう。
「親」は木の上から子供を見守る存在
「親」という漢字は、
木の上に立って見る
と書きます。
この漢字が「親」という意味を持ったのは、昔の子沢山の親たちがしていたことから成り立ったのだそうです。(諸説あり)
たくさんの子供達が、この世間を生きているのを親は木の上から見守っている。
あ、今、血を流している!
あ、今、喧嘩している!
そんな様子を、木の上で見ているものですから、ただただ、見ておくことしかできない。
できることといえば、大きな声で声援を送ることだけ…
そんなことから、「親」という漢字ができたのだそうです。
大昔の親がそうであったように、今だって
親は、我が子が自らの足で人生を歩むのを遠くから見守り、
必要な時に「がんばれ」と声をかけてあげることが本来の親の役目なのではないでしょうか。
一人前じゃなくてもいい。1人の人間としての生き様を見せる
まとめです。
ここからは筆者の持論になります。
結論、一人前の親になる必要はない
と思っています。
子供が、たくさん出来ることは素晴らしいことだと思いますが、必ず子沢山でなければならない!なんてことはありません。
親がどういう存在でいたほうが良いのかを知っておくことは大切です。
ただ、だからと言って立派な親である必要も無いのかなと。
未熟な親なら未熟な親で良いのです。
そりゃ子沢山でいっぱい経験を積んで、本来の親としての役割を立派に果たすことは素晴らしいことですし、
それを目指したい気持ちもあります。
ただ、大切にしなければならないポイントは、そこではないように思います。
完璧な親でなくてもいい。
たまには子供に感情的になったり、心配しすぎたりしても良いんじゃないかなと思うのです。
最低限知っておきたいのは、今回、タクシーの運転手さんから学んだ、
我が子が別人格の人間であること。
その子には、親である自分とは違う、その子の人生がある。
これだけ忘れなければ、多少駄目な親であっても良いんじゃないかな。と。
親も1人の人間として、我が子に、
「私はこんな人間。こんな人生を歩んでるの。」
と、自身の生き様を見せる。
子供とは別の人間としての生き方です。
そのうえで、我が子に
「あなたは、どんな人生を歩く?」
と問いかけ、子供自身が選択できるように見守りながら、共にそれぞれの人生を歩んで行けたら良いなと思うのです。
今回の記事も少しでも参考になると嬉しいです☺️
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